
はじめまして。
カウンセラーのMIZUKIと申します。
私は自身のHSP気質に加え、家庭内で安心できる居場所を持てなかった幼少期や、学生時代のいじめ・人間関係のトラウマなどを経験し、心の深くに多くの傷を抱えて育ちました。
大人になってからも強い劣等感を抱き、人の顔色ばかり気にしては疲れ果て、転職を繰り返し、生きることそのものに希望を見出せずにいました。
そんな私を変えたのが「カウンセリング」です。
自分の心の仕組みや生きづらさの原因を深く知り、無理なく“自分らしく生きる”ための方法を学んだことで、人生をリスタートすることができました。
心の土台が整い始めるまで、ほんの1年足らずのことです。
今ではかつての私と同じようにHSP・アダルトチルドレン・愛着障害・うつなどに悩む方の力になりたいという思いから、カウンセリングを行っています。
カウンセリングは「誰と向き合うか」がとても大切です。
このページ下部に、より詳しい私のプロフィールを載せていますので、よければご覧くださいね。
私のこれまでの人生がどのようなものだったのか、そしてどのように生きづらさを克服したのかをあなたに知っていただければと思います。
~目次~
内気で敏感なこどもだった幼少期
両親の喧嘩に巻き込まれ、二人の機嫌を取る日々
不登校になった小学校時代 父に叱られ、本音を閉じ込めた
中学校では、典型的な「良い子」になり、初めて自分の好きな部分ができた
部活動での苦しい経験で固まった「自分はダメだ」というセルフイメージ
クラスメイトからのいじめで更に自分が嫌いになる
「辛い思いをしている子が救われてほしい」という思いから、カウンセラーになる夢を持つ
希望に満ちた大学生活!だったのに…
うつ病の診断と学歴コンプレックスを隠すための国家資格取得
気づけば6年間で4回の転職。常に「過剰適応」状態だった私。
「ダメな自分」を見せることが耐えられず、大切な人間関係を切っていった
やっと「普通の人」になれた気がして嬉しかった
自信を持って臨んだ6度目の転職で、ダメな自分へ逆戻り…
ほぼ寝たきりの状態が続くなか、自分と向き合う決心がついた
カウンセリングで生きづらさの原因と対処法を知り、安定した心の土台を手に入れた
10年越しで、再びカウンセラーの道へ進むことを決意する
もっと早くカウンセリングに出会っていれば…
内気で敏感なこどもだった幼少期

1つ上の姉と2つ下の妹がいて、3人姉妹の中間子として育ちました。
内向的な性格で、一人の時間や姉妹とお家で遊ぶのが好きな子どもでした。
一方で、大きい音や回転性の運動、イベントごとはとても苦手でした。
周りの子が楽しそうにはしゃぐ中、私は耳を塞いだり、ぐるぐる回る遊具を前に立ち尽くして動けなくなったり。
先生に「どうして泣いてるの?」と聞かれても、自分でもうまく説明できませんでした。
いわゆるHSC(Highly Sensitive Child)です。
幼いながらに「自分は他の子と違う」という感覚がありました。
「なんで私はこんなに怖がりなんだろう?」「どうして楽しめないんだろう?」
そんな小さな違和感を、いつも胸の奥に抱えていたように思います。
両親の喧嘩に巻き込まれ、二人の機嫌を取る日々

5歳頃から、両親の喧嘩をよく見ていた記憶があります。
単身赴任の父が月に数回帰ってくる度、両親は夜中まで言い争いをしていました。
喧嘩の内容が分かる年齢になると、「母の味方がしたい」という思いから、私も喧嘩に口を出すようになり、次第に、二人の仲介役に。
喧嘩が終わると、言い負かされた相手側へ行き、機嫌を取ったり、話し相手になったりして、自分なりに家族のバランスを取っていました。
そんなふうに“場を収める”ことができたとき、心のどこかで「役に立てた」という小さな誇らしさや嬉しさも感じていました。
誰かの気持ちを優先して動くこと——それがいつの間にか「自分に価値を与えてくれること」だと思い込むようになっていました。
もちろん、当時の私は全く気づいていません。
無意識のうちにそんな価値観が私の中で育っていきます。
不登校になった小学校時代。父に叱られ、本音を閉じ込めた

小学校では、登校しぶりから一時的不登校にまで至ったこともありました。
幼稚園の頃と同じように、私だけが感じる“怖いもの”がそこにはあったのです。
教室のドアを開ける前、胸がドキドキして思わず足が止まる日もありました。
そんな私のために、母はパートに出る前、毎朝見送りや授業の付き添いをしてくれ、
担任の先生も「よく来たね」と優しく声をかけてくれました。
しかし、母や先生の優しさがかえって「学校には行かないといけない」という私の思いを強めていきました。
小学校3年生頃には、「行きたくない」という本音は、胸の奥にぎゅっと押し込められていきました。
大人になってから顕著になる”過剰適応”。
その前兆は、こんなに幼い時期から現れていました。
中学校では、典型的な「良い子」になり、初めて自分の好きな部分ができた

小学校の頃とは一変し、中学校では活発な学校生活を送りました。
その頃には「良い子」としての自分を完全に身に付けてしまっていました。
学級委員や合唱コンクールの伴奏を経験、部活動では中心メンバー、習い事でも表彰されて、そこそこの優等生として学校生活を楽しんでいました。
努力すること、期待に応えること、そして人よりも優れていること。
そんな自分を好きでした。
しかしそれらは同時に、自分を好きと思える「条件」にもなっていました。
- 努力しなければいけない
- 期待に応えなければならない
- 人よりも優れていなければならない
自分を苦しめるマイルールが水面下で確立されていきます。
この条件付きの自己肯定は、やがてくる大きな挫折を呼び寄せる土台にもなっていたのでした。
部活動での苦しい経験で固まった「自分はダメだ」というセルフイメージ

小・中・高と、9年間バスケットボール部に所属していました。
高校では、熱血系の顧問のもとで、厳しい指導を受けることになります。
私はもともと運動神経があまり良いほうではなく、走り込みについていけずに落ち込んでいました。
そんな私に対し、顧問はよくこう言いました。
「子どもじゃないんだから、いつまでも落ち込むな」
「すぐ諦めるな。甘えるな」
真面目だった私は、そのたびに自分を奮い立たせました。
「気持ちを早く切り替えよう」「諦めない。もっと自分に厳しくしなきゃ」と。
でも、どんなに決意しても、いざという場面で気持ちがついてこない。
心も身体も思うようにコントロールできず、自分への不甲斐なさにまた落ち込む。
3年間、その繰り返しでした。
練習中には私のせいで何時間もストップし、連帯責任でチームメイトに迷惑をかけることもありました。
中学生の頃の“優等生の自分”はどこへやら。
気づけば、チームの中で一番の問題児という立ち位置に。
中学生までの私が無意識に作った「マイルール」
・努力しなければいけない
・期待に応えなければならない
・人よりも優れていなければならない
高校の部活では、それらのどれも満たすことができませんでした。
そのたびに「だから私はダメなんだ」と、自分への評価が下がっていく。
自信をなくす、辛い時期でした。
クラスメイトからのいじめで更に自分が嫌いになる

部活動で苦戦している時期、他の問題も起こりました。
部活動もクラスも一緒で、当時私が一番仲が良かった友達にいじめられました。
友人間の恋愛トラブルについて、私が口を出したことがキッカケで、相手側から徹底的に無視をされました。
口を出した表向きの理由は「正義感」から、でも潜在的には”場を収めることで役立てる”という自己価値を満たすための行動だったのかもしれません。
そして、私の言い方も、言うタイミングもよくありませんでした。
当然、謝っても一向に許してくれません。
クラスの中でも部活でも私のことだけ「フル無視」です。
「なんてことをしてしまったんだ」そう思い自分を責めました。
一人で耐えるには苦しく、身近な大人に相談しました。
父:「気にしすぎ。味方が一人でもいたらそれでいいだろ。」
母:「私もね…今日だって…」と自分の職場の愚痴。
部活の顧問:「他人から好かれる人間になりなさい。」
担任の教師:「え~。面倒くさいよ~勘弁して。笑」
そんな大人の意見を聞いた私は、気にしすぎる性格や他人から好かれない自分をますます嫌いになり、またどっぷりと自己嫌悪に陥りました。
いじめの苦しみを少しでもごまかしたくて、参考にしたのは、職場で理不尽な扱いを受けていた母の姿です。
母も私も、外では何も言わず我慢し、家で気が済むまで本音や愚痴を吐き出していました。
それが私たちなりの“感情の逃がし方”でした。
その頃の私(母も)は「本音を外の世界で表現する」「誰かに助けを求める」という選択肢があるということにも気づいていませんでした。
「辛い思いをしている人が救われてほしい」という思いから、カウンセラーになる夢を持つ

友達の「フル無視」はまるっと1年続きます。
家で気持ちを発散しているのに、学校での不安は消えず、毎日が息苦しく感じていました。
息がしにくくなり、うまく笑えなくなって、半年以上マスクを手放せない生活が続きました。
そんな日々のなかで、ひとつの大きな夢が生まれます。
「将来はカウンセラーになりたい」
この弱いメンタルをどうにかしたい。
その方法を、どうしても知りたかった。
そしていつか、同じように苦しんでいる誰かの力になれたら――。
その思いだけが、心の原動力になっていました。
夢の実現に向けて、気持ちを奮い立たせながら、受験勉強に打ち込む日々が始まりました。
希望に満ちた大学生活!だったのに…

高校卒業後は第一志望の大学に受かり、進学しました。
地元から遠い大阪で、心理学の専攻がある大学。
新天地には高校の自分を知る人は一人もおらず、清々しい気持ちでした。
顧問の言葉を思い出し、「他人から好かれる人間」を意識して過ごすと、友達もたくさんでき、充実した日々を送ることができました。
「良い子」の私がバージョンアップして復活です。
しかし、入学から半年後、友人のちょっとした態度の変化や、自分の周りに集まる人数の変化で、時折不安がこみ上げてくるように…。
「一緒にいて面白くないって思われてたらどうしよう」
「気に障ることを言わないように気をつけないと」
この不安は、1年かけて徐々に大きくなり、「人が怖い」という気持ちになっていきました。
この“怖さ”の正体は、「嫌われるのが怖い」という気持ちです。
高校の時の心の傷つきを癒やせていなかった私にとって、「誰かに嫌われる」ということは「無視される」「冷たくされる」「いないものとして扱われる」という耐えがたい状況をうむことでした。
――あんな苦しみはもう二度と味わいたくない、それだけは絶対に避けたい。
そんな思いが隠れていました。
やがて、友達と遊びの約束をしてはドタキャンを繰り返すように。
そして、授業もサークル活動も休みがちになった挙句、いよいよ外に出られなくなりました。
私の状態を知った母が精神科に連れて行ってくれましたが、診断はつかず。
治療対象じゃないなら自分でどうにかするしかないと思い、半年間コーチングを学び、自分を変える努力をしましたが、自力ではどうにもできませんでした。
そして、3年生の時、大学を退学しました。
うつ病の診断と学歴コンプレックスを隠すための国家資格取得

大学を退学して実家に戻った後、私は引きこもりがちになり、孤独で不安な日々が続きました。
別の精神科にかかったところうつ病と診断され、通院。
2年ほど薬を飲み続けましたが、残念ながら効果を感じることはできませんでした。
普通なら楽しい青春時代を過ごしているはずの20代前半に、何もできない自分。
強烈な劣等感に襲われました。
一番ひどかったのは学歴コンプレックスです。
療養期間中にも関わらず「このまま休んでばかりじゃいられない…何かを達成しなければ…」という思いに駆られ、1年間必死に勉強し、行政書士の資格試験を受けることに決めました。
試験には一発で無事合格することができましたが、それでも心の中は何も満たされない感覚でした。
一時の表面的な自信を持ったものの、だからといって行政書士として働く覚悟は持てない。
そんな自分にまたガッカリしていました。
気づけば6年間で4回の転職。常に「過剰適応」状態だった私。

体調や心が少し落ち着いてきた頃、私はアルバイトで不動産の事務職に就きました。
これが、初めての社会人経験でした。
でも──
・完璧主義で、ちょっとしたミスをしただけで「死にたい」と感じる
・嫌われたくない気持ちから、誰にでも愛想よくふるまう
・いじめられている人の気持ちを“勝手に”背負ってしまい、苦しくなる
学生時代と同様、やっぱり無意識のうちに「過剰適応」していたのです。
自分の感情や限界を後回しにして、周囲に合わせすぎてしまい、気づけば心も体もすり減っていました。
あっという間に心身が限界を迎え、退職。
2ヶ月ほど休めばまた元気になったので、「もう大丈夫」と思って次の職場へ。
けれど──
未熟だった私は、どの職場でも同じことを繰り返しました。
・毎週の飲み会を断れない
・セクハラを受けても笑顔でふるまい続ける
・苦しくても「大丈夫」と言ってしまう
・すべてをうまくこなそうとして、どんどん自分を追い詰める
結果、いつも1年ほどで限界を迎え、心や体に不調が出るように。
めまい、アトピー、貧血…。
時には、ベッドから起き上がれなくなるほどの疲労感と絶望感に襲われ、「もうダメだ」「全部終わらせたい」とまで思い詰めてしまいました。
毎度、退職するときの表向きの理由は「キャリアアップのため」。
けれど、いつも本音は「もう限界」でした。
「次こそはうまくやろう」
「今度はもっと我慢しよう」
そう思って転職を繰り返しているうちに、気づけば6年間で4回も職場を変えていました。
「ダメな自分」を見せることが耐えられず、大切な人間関係を切っていった

「我慢しなければいけないのに」「もっと辛抱強くなければ」
分かっているのに続けられない…
そんな自分が恥ずかしく、みっともないと思い、自分でいることが辛くて仕方がなかった。
定期的に連絡をくれる友人や前の職場で良くしてくれた方々との縁を自ら切っていきました。
メールの返信をしなかったり、SNSのフォローを外したり…
劣等感を感じたくなくて、孤独でいることを選びました。
やっと「普通の人」になれた気がして嬉しかった

5回目の転職では、派遣社員として事務職につきました。
これまでと同じように「過剰適応」はあったものの、人間関係が比較的穏やかな職場で、3年間の期間満了までやり過ごすことができました。
ストレスやいろんな気持ちを押さえて仕事を続ける自分は、まるで「普通の人」になれた気がして嬉しかったんです。
「この調子だ…!」
そう思って次のキャリアに進みました。
自信を持って臨んだ6度目の転職で、ダメな自分へ逆戻り…

引っ越しを機に、税理士事務所への転職が決まりました。
「もう大人だし、3年も働けたんだから大丈夫」と、不思議な自信を持って新しい職場へ。
でも実際、入社してみてビックリ。
公私混同やパワハラ的な発言が日常茶飯事。
人の入れ替わりも激しく、新人は私を含め皆、まるで“使い捨て”のような扱いを受けます。
それでも「皆、我慢しているから」「早く戦力にならなきゃ」と無理を重ねました。
気づけば心も身体も限界に。
出勤前に泣き、帰宅後は何もできず寝るだけの日々。
週末に夫へ一週間分の愚痴をこぼすことで、なんとか持ちこたえていました。
でもやっぱりその時は来ました。
「もう限界」──そう気づいてからは、あっという間に退職しました。
ほぼ寝たきり状態が続くなか、自分と向き合う決心がついた

退職してからは、2ヶ月ほど、抜け殻のように何もできず、ほぼ寝たきりの状態が続きました。
沸いてきたのは「やっぱり、私、ダメか…」という思いでした。
そしてようやく、やっと、自分の冷静な声が聞こえてきました。
「このままうつ状態の回復期を経て、ぬるっと社会復帰できるようになっても、きっとまたどこかで折れてしまう。」
「自分の根本の何かを変えないといけない。」と気づいたのです。
カウンセリングで生きづらさの原因と対処法を知り、安定した心の土台を手に入れた

私にとって、カウンセラーはかつての自分が唯一夢見た仕事。
自分が叶えられなかった夢を叶えている人に近づいていくには、かなりの勇気がいりました。
それでも――もう自分ではどうしようもない。
覚悟を決めて、ネットで見つけた近所のカウンセリングに申し込みました。
カウンセリング回数を重ねるうちに見えてきたのは、「私を生きづらくさせていた正体」でした。それは主に、幼いころから学生時代までの経験のなかで、自分を守るために作り上げてきた“マイルール”。
「人に迷惑をかけちゃいけない」「ちゃんとしてない私はダメだ」「相手の気持ちを優先するのが当たり前」…
そんな“頑張り屋の私”を形作ってきたルールたちは、当時の私には必要なものでした。
そうすることでしか、安全を感じられなかったから。
でも、カウンセラーさんとの対話を通して、私は気づきました。
「このルールたち、このまま持ち続けていても苦しいだけだ…」と。
「これからの私は、もうそのルールに縛られなくていい」
そう思えたとき、心の鎧が少しずつほどけていく感覚がありました。
そして、「誰かに合わせるのではなく、自分の気持ちをちゃんと感じて、ちゃんと表現していい。」
それが、自分を大切にするということなんだと、ようやく理解できたんです。
そしてその気づきは、少しずつ、確実に、私の行動を変えていきました。
苦しさを感じる人間関係のなかに、無理に飛び込まなくなった私。
他人との距離感を自分でコントロールできるようになり、合わない人に振り回されることがほとんどなくなりました。
頼まれごとも「それはちょっと難しいです」と、自分の心を優先して伝えられるようになった。
その変化の一歩一歩は、怖いけれど、同時にとても清々しく感じられました。
もちろん、未だに失敗して落ち込むこともあります。
でも、「私なんかダメだ…」と引きずることは減り、あっさりと立ち直れるようになった私がいました。
そんな私を見て、周りの人たちも言ってくれました。
「なんか、前よりラクそうに生きてるね」「変わったよね」って。
他人から見ても分かるほどの変化を遂げた自分に、更に自信を持ちました。
10年越しで、再びカウンセラーの道へ進むことを決意する

単発のバイトから、少しずつ社会に戻っていく中で、心の奥からふつふつと湧き上がってきた想いがありました。
「やっぱり私は、カウンセラーになりたい。」
あの頃の私のように、生きづらさの原因も分からず、ただひたすら自分を責めて、我慢して、頑張りすぎている人がいる。
ニート、短期離職、職場を転々とする人。人間関係を何度もリセットしてしまう人。
恋愛や買い物、アルコールなど、何かに依存せずにはいられない人。
世間からは「だらしない」「甘えてる」「社会不適合者」と冷たい目を向けられてしまいがちな人たち。
でも本当は──私と一緒。
心の仕組みや、自分との向き合い方を学ぶ機会がなかっただけ。
安心できる人間関係を、育つ中で体験できなかっただけ。
本当は本人が悪いわけじゃない。
ただ、運悪く、機会と経験がなかっただけなんです。
私はそれを知っているから、そんな人に手を差し伸べられる人になりたい。
一人で抱え込むしかなかった心に、寄り添える存在になりたい。
そう思い、私はもう一度、カウンセラーになる道を歩き始めました。
心理学やカウンセリング、心の病気について、本格的に学びながら、自分自身にもその学びを活かす。
そして、ボランティアで始めたオンラインカウンセリングで、少しずつ実践を積んでいきました。
もっと早くカウンセリングに出会っていたら…

長く辛い時間を過ごしてきた私が、たった約半年のカウンセリングをきっかけに人生をリスタートできたことは、今でも信じられません。
もし、あの時カウンセリングに足を運ばなかったら、今の私は存在していなかったと思います。
辛くて苦しくて恥ずかしい経験も、今では「それも私らしさを作る大切な部分だった」と思えるようになりました。
それでも心の中で、「もっと早くカウンセリングに出会っていれば…他の人にこんなにも迷惑をかけずに済んだかもしれない」「貴重な20代を全力で楽しんで送れていたかも知れない」という思いも時折湧いてきます。
でも、今の私が伝えたいのは、過去の私と同じような生きづらさを抱えている方にこそ、カウンセリングを受けてほしいということです。
失敗や傷つき体験を繰り返し、自分をどう生きたらいいか分からない人が、カウンセリングを通じて傷を癒やし、苦しいマイルールから解放されていくことで、ふとした瞬間に「生きるのがラクだ」と実感できるようになります。
その瞬間こそ、私が提供したいと思っているものです。
このページを最後まで読んでくださったあなたが、もし「人生を変えたい」「ラクになりたい」と思っているのなら、どうか勇気を出してご連絡ください。
その小さな一歩が、あなたの未来を大きく変えるきっかけになるかもしれません。

長い長いプロフィールを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
